小説「うみのあな」前編
ある夏の出来事だ。
その日俺は、友人たちと海水浴をするために海を訪れていた。普段はプールで泳ぐ機会もなかなかないが、かつて小学校の授業で教え込まれただけの泳ぎ方でも、意外と体は忘れていないものだ。天気が良くて日差しが熱い、まさしく絶好の海水浴日和。夏休みシーズン真っ只中ということもあり、浅瀬は子連れの家族やカップルなんかで混雑していたが、少し岸から離れてしまえばそれだけでも、両手足を広げて水面に浮かんでいられるくらいにはスペースの余裕が確保できた。
「まさしく海に来た、って感じだなぁ……」
一緒に海まで来た友人たちは、なにやらビニールボールを膨らませて遊びの準備をしている様子だったが、こうして日頃のストレスを忘れてただ海に浮かんでいるだけの時間も悪くない。真夏の日差しを浴びながら、そんなことを考えてのんびりと海面を漂う。どうせ用があるなら呼びに来るだろうし、それまで俺はこうしていよう。──そのつもりだった。
ふと気が付くと、やけに遠くから俺の名前を呼ぶ声がした。妙に迫真の、まるで今すぐ俺になにかを伝えないといけないような、とにかく切羽詰まった声だった。
と、同時に疑問が浮かぶ。あまりにも声が遠すぎる。不意に胸騒ぎを感じた俺は、飛び起きるようにして身を起こすと、声の聞こえる方向へと目を向けた。
「な……っ」
浅瀬の方に居る友人たちの姿が、驚くほど小さく見える。いや、違う。俺が岸から離れているんだ。ただ水面に浮かんでいるつもりだった俺は、いつの間にか砂浜から大きく離れた沖の方へと流されていた。離岸流というやつだ。毎年ニュースでその名前を聞くことはあったが、まさか自分がそれを体験することになるとは思ってもいなかった。
「まずい、まだ流されてる……!?」
今なお砂浜が遠ざかっていることに気が付き、焦った俺はすぐに泳ぎ始めた。だが、離岸流は強い流れだ。本来は横にそれて流れのないところから岸に帰るべきで、流れに逆らって泳いでも体力を奪われるだけ。しかし半ばパニックに陥っていた俺は、そんなことに気づく余裕もなかった。
そして、不運には不運が重なるらしい。必死に泳ぐ俺の視界に、映画やテレビ番組なんかで見覚えのある何かが横切った。
──鮫だ。
思わず体が止まった。状況を理解するまで数秒かかる。鮫、海水浴客を襲うこともあるという海の危険生物。それが今まさに、助けも期待できないこの状況で目と鼻の先に居る。
驚きと焦りで、顔が海の中に入っていることも忘れて息をのむ。瞬間、喉の入ってはいけない場所へと海水が流れ込んできた。痛い、苦しい、怖い。
俺は、一瞬にして溺れた。
鮫が迫る。視界がぼやける。意識が遠のく。
(まずい、死ぬ)
俺の意識は、そこで途切れた。